第15回 2010年 ドゥアルテ通り
2010年9月5日
写真: ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテが通りの名になっている。ニューヨーク、マンハッタンにて。
植民地支配の遺産
ジョージ・ワシントン、アブラハム・リンカーン、J.F.ケネディ。これらはすべて、首都サント・ドミンゴをはしる通りの名前である。なぜドミニカで歴代アメリカ大統領の名前が使われるのだろうか。
話は1905年までさかのぼる。アメリカがカリブ海地域を支配する拠点としてドミニカを選び、借金の形(かた)に関税権を召しあげた。これを機に資本家たちがやって来るようになり、それまでスペイン系によって独占されてきた金融業やサトウキビプランテーションを次々に買収した。サント・ドミンゴの区画整理がおこなわれ、通りの名前がつけられたのもこのころである。
すでにキューバ人によって伝えられていた野球が、この時期にドミニカ全土へと広まったのもこのような事情が背景にある。その時代から1世紀以上の時間が経過したが、通りの名は当時のままだ。このことは、今なおドミニカが、アメリカによる政治経済的支配下にあることを物語っている。
血肉化された歴史
「パリグアージョ!」と呼ばれたその男は、険しい表情で後ろを振り返った。周囲に緊張した空気が流れる。直後、声の主が仲のいい幼馴じみであることがわかると、ほっとしたような表情を浮かべ、満面の笑みで近づくと「コーニョ!(くそ!)」と応じた。直訳すれば、「情けない野郎」くらいの意味になるのだが、それにしては男の反応が激しすぎるように思えた。何かあるのではないか?
この出来事の後、できるだけ年配の人を捕まえては、手当たり次第に言葉の意味を訪ね歩いた。その結果、この言葉の誕生には、どうやらアメリカによる軍事統治が深く関係しているらしいことがわかってきた。すでにその時代を知る人の多くが鬼籍にはいっており、話を聞くことはできなかったが、子の世代にあたる人が、「父親から聞いた話だけど」と断ってから滔々(とうとう)と語ってくれた。
「あの占領時代、アメリカ人はパーティをこの国に持ちこんだ。首都ではそれこそ毎晩のようにどこかでパーティがあったというんだから、そのときから政治家はいい思いをしてたんだろう。それはまあいいとして、うちの親父があるときそんなパーティのひとつに呼ばれたらしい。なぜかって? ほら、うちの親父は警察官だったから、そういうのもあったんじゃないかな。警備とかそういう名目で。そのパーティでのことは、もう何回聞かされたかわからない。酔っ払うと、最後には決まってその話をお袋や近所の人に話してたから。それはこういう話でね。
親父が言うにはだよ。そのパーティには、ドミニカ人の若い娘がたくさん呼ばれるの。どこの国の人間だって男はみんなスケベってこと。お前もそうだろ? まあいい。娘たちも憧れのアメリカ人と出会えるチャンスだから悪い気はしないさ。つまりそのパーティの主人公はアメ公とドミニカ人の娘なんだよ。それをうちの親父みたいな警備担当や給仕係の男たちが見守っているわけ。これってすごいことだと思わない? お前さんも知ってのとおり、ドミニカの男がきれいな女が目の前でアメ公と踊るのを指をくわえて見守っているんだから。何もできずにね。
お前さん、パリグアージョって言葉知ってるだろ? そう、喧嘩のときにしか使わないアノ言葉さ。あれってもとを正せば、ここからきてるんだ。アメリカ人たちがパーティを見物しているドミニカ人にたいして“パーティ・ウォッチャー”って呼んだのが、スペイン語に訛ってパリグアージョになったのが始まりなんだ。だから、今でもこの言葉が禁句になっているのさ。お前さん、冗談でもよっぽど仲のいい相手にしか使っちゃダメだよ。よく覚えておきな」
なにげない話し言葉にまで植民地支配の影が色濃く残っていることに愕然とした。この話を聞いてようやくあのときの謎が解けた。「パリグアージョ」と呼ばれた男の険しい表情と周囲に走った緊張を私は知った。男の内部に無意識のうちに血肉化されていた歴史が、普段は休火山の底のマグマようにおとなしく眠っているのだけれど、あの一言をきっかけに瞬時に融解し、閃光となって一気に頭の先から爪先までを駆けめぐったのだ。
幸いにも、この言葉が本気で使われている場面に私はまだ遭遇したことがない。
パリグアージョの怨念
日本からドミニカに向かう際には、いつもニューヨークを経由する。マンハッタンにあるドミニカ人街、ワシントンハイツに立ち寄るためである。空港近くのホテルに泊まってもいいのだが、それよりも移民街でウォーミングアップをしてからのほうが、ドミニカへの順応がスムーズにいくというのがその理由だ。何度目かの訪問の折に、交差点に立てられている標識が眼にとまった。「W 170 ST」「ST NICHOLAS AVENUE」というなんでもない標識の上に、「JUAN PABLO DUARTE」と、もうひとつ標識がかかっている。ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテの名前が通りにつけられていたのだった。この標識が設置されたのは、ドミニカ移民が住民の過半数を超え、市会議員を輩出するなど政治的発言力を強めた結果である。
こうした光景に出くわすたびに、アメリカという国のおおらかさに感じ入ってしまう。ヨーロッパや日本にはない遊び心とでもいえようか。蒸留酒より混合酒に酔うのである。しかし、通りの名前というのが私には引っかかった。あまりにもできすぎた話じゃないですか、と。100年前にはアメリカが、そして今、ドミニカからの移民たちが、である。これを移民たちの権利獲得運動の結果とみるか、ドミニカ側からの意趣返しとみるか。いずれにしてもその文字からは、パリグアージョたちの怨念が漂ってくるのである。
(隔週日曜更新)