「命をいただく」ということ
2011年6月19日
「一緒に食べようと思ってまだ殺さないでいたんだ」
パパケイはそう言うと、育てて6か月になる雄鶏をケージから放した。二男はまきで火をおこし、鍋いっぱいの熱湯を準備する。パパケイはナイフを研ぐ。雄鶏と妹たちは、一緒に走りまわって遊んでいる。嫌がったり、手を洗ったり、エプロンをつけたりする様子はまったくない。小さな娘たちはパンツ一枚に砂だらけの手足でたのしそうだ。
首から噴きだした血は、しだいにひたひたと地面に落ちて、止まった。熱湯をかけた体に娘たちが駆けよってきて、真っ白の羽をむしる。体を切り分けていく父親の周りを「きゃっ、きゃっ」と笑いながら、離れない。仕事から帰ってきた母親は玉ねぎを刻み、塩をして鍋にふたをした。一家にとって3週間ぶりの肉料理だ。
真っ赤な血、毛をむしる娘たちの手、内臓をひとつひとつ取り出したパパケイの指。さっきまで雄鶏にエサをやり、一緒に遊んでいたかと思えば、いまはその肉の入った鍋を囲んでうれしそうに夕飯を待つ子どもたち。生きものの命をいただくこと、それは命を育むこと、そしてその命を切り取ることを経験しなければいけない、ということなのかもしれない。
(毎週土曜日更新)