刺激的な散歩は信頼関係を築くもっとも有効な方法のひとつ
2011年2月28日
犬を飼うなかで代表的な行動のひとつが散歩だろう。前回、しつけの本質が信頼関係にあることと、子犬のうちにしっかりと目をあわせることについて記したが、日々行わなければならない散歩においても、それを育むチャンスが無数に転がっている。飼い主はそのチャンスを見逃さないようにすることはもちろん、積極的に活かしていくぐらいの心構えでいたい。
たとえば、私がいくら在宅勤務とはいえ、夜に散歩をしなければならないときが当然訪れる。まだ「セナ」が生後半年ぐらい、外へ散歩するようになってからそれほど月日が経っていないころ、その日はいつも夕方に訪れる海に夜遅く行った。夜の海の散歩キャリアはほとんどなかった。街灯があるとはいえ、そこはやはり暗く、場所によっては漆黒の闇が広がり、波の音が響いていた。もちろん人もおらず、街中とは違い広がる景色が何よりも広々としている。
「いつもと違う!」
まだ少年のセナはあきらかに戸惑っていた。誰もいないのをいいことに私はそこでリリースしたが、いつものようには走り出さない。セナはその場に佇み、鼻を盛んに動かし、周囲を見渡して動かなかった。私はゆっくりと歩き出し、「おいで」とセナを呼んだ。彼はシッポを入れたままゆっくりとついてきた。私は「ホレ、ココは」と言いながら建てられているそばの竹柵の一部を指差した。彼はやっと鼻を近づけ本格的にチェックしはじめ、それからシッポをゆっくり上げながら、周辺を徘徊し始めた。私は闇がもっと濃い方に移動して、そこからまた彼を呼んだ。彼は早足で私のところに来た。そして彼を撫でながらこう呟いた。
「ほら、いつものところだよ、怖くないだろ」
それからはもう普段と変わらないセナに戻っていた。気ままにいろんなところのにおいを嗅ぎ、芝生でお腹を出してゴロゴロした。
セナにとって夜の海はほとんど初体験のようなもの。やはり恐怖や不安が彼を襲っていたに違いない。そのとき、私は上手くリードすることができたと思う。
同じ時期に似たようなこともあった。その日は台風が接近していた。雨風ともに強く、散歩するのにこちらも躊躇するような天候だったが、排泄させなければならず、また、待っても穏やかになる見こみもなかったので、私は完全装備(もちろん傘は役に立たない)をして散歩に出かけた。上の方では電線がうなり、カッパを叩く雨音が全身を包み、防御していても私のメガネはしずくだらけになった。そんななか、カッパを着た少年のセナも歩を進めていく。出発当初だけ訝しげに見回していたが、あっという間に顔がずぶ濡れになるにもかかわらず意外とすぐに慣れ、それよりも雨でにおいがすべて流されてしまっていることが不満らしく、かえって積極的に歩いた。目前を飛んでいく白いビニール袋や葉っぱに興味を示して追いかけようとしたり、ちょっとでも気になるにおいを嗅ぎつけると、逃してなるかと腕が抜けるかと思うほど思い切り引っ張ったりと、逆に普段よりテンションは高かった。
しかし散歩を続けていると、徐々に、ブワッという音とともに襲う一瞬の強い風(ブロー)の回数が増えてきた。当然私たちはその度に歩を緩める。さすがの私も一気に緊張してきた。ウンチも済ませたし、早く帰った方がよさそうだ。その緊張がセナにも伝わったのか、単純にブローに危険を感じたのか、セナのテンションも下がってきた。そして帰途につきはじめて少し経ったとき、大きな音がした。どこかの家の庭で物が飛んだか倒れたらしい。私は歩を早め、セナも私の顔をときどき見ながらピッタリとついてきた。そして家の直前でゴミ箱が左から右へ道路を転がっていった。
私たちは何事もなく無事に帰宅できた。玄関でびしょ濡れのセナを相棒の女性といっしょに10分以上念入りに拭いた。その間彼は、まるで「怖かったよ〜」と言っているようにシッポを激しく振っていた。しかしセナは私が拭き終わるまで、家の中に上がらなかった。頭を撫でながら「ヨシ」と言うと、彼はお気に入りのクッションに一目散に向かい、お気に入りのぬいぐるみをくわえてからフセをした。玄関には拭いたバスタオルが山となっていた。
私はスリルのある散歩をしろと言いたいのではない。日々の散歩はただ排泄をさせるだけのルーティーンではなく、いろいろなことが起こりうる場であるということと、特にまだ子犬のときは初体験のことだらけで、真綿に水が染みこむように犬にはその記憶が刻みこまれる。そしてその現場監督は飼い主であるから、その対応の良否が、信頼関係の醸成(=しつけ)という点からも大きな影響があるということを忘れないでほしいということである。
「気づきのチカラ」の回で、私の愛犬たちは、家のなかでも野外でも、いつもこちらの位置や存在を確認していると書いたが、それはマニュアル的なしつけではなく、今回の例のようなことを子犬のころから無数に繰り返した結果だと実感している。