写真を選ぶ側から撮る側へ
2010年12月24日
はじめに簡単な自己紹介をしておこうと思う。
私は湘南・鵠沼にゴールデン・レトリーバーと暮らしているいい歳をしたオトコである。今年(2010)の春までは2匹のオスといっしょだった。過去形で記したのは、残念なことに最初に暮らし始めた愛犬「セナ」がこの春に他界してしまったからだ。齢12歳と5か月だった。現在はもう一匹の愛犬、8歳になる「アンディ」と、そして長年私の相棒となっている女性とともに、オフィスも兼ねる自宅で暮らしている。
イヌを飼い、いっしょに生活するようになって、あまりに多くのことが変化した。それは表面的なことから内面的なこと、しいてはモノの見方や価値観まで、実に大きな影響を私に与えた。このフォトエッセイはその影響によって得たものやわかったことなどを、お伝えしたくて始めたものである。
最もわかりやすく変わったことが、本格的に写真を撮り始めたことである。
実は、私たちは2人で小さな会社を設立し、ずっと雑誌編集を主な土俵として活動してきた。なので仕事柄、多くのカメラマンと撮影をともにし、編集作業の過程で撮影されたさまざまなジャンルの写真を見て、目的に合わせて選んできた。
写真と常に接してきた環境で過ごしてきたのである。自分でもそれなりに撮影してきたが、あくまで撮る側ではなく選ぶ側だった。そして、自分の愛犬を飼うようになり、イヌに関する写真をはじめて意識して見るようになった。
すると、雑誌や書籍、カレンダーなどの犬の写真を見ても、なにか違和感を覚えることが多く、感銘を受ける写真に出会える機会もあまりなくて不思議だった。
「何かが足りない。飼っているから余計にそう思うのか? それならば自分で撮ってみよう、撮ればその理由も何かがわかるだろう」
ということで、本格的に自分で犬の写真撮影を始めた。写真を”選ぶ側”から”撮る側”に立ち位置を180度変えたのである。写真眼にはそれなりの自信を持っていたので、犬というテーマに関して真剣に取り組めばわかるだろうし、自分でも撮れるだろうというほのかな確信はあった。
もちろん撮影モデルは愛犬セナで撮影を始めた。すると次々といろいろなことがわかってきた。写真についても、イヌについても、新しい発見の連続だった。そして気がついてみると何をするよりもイヌの写真を撮っているのが一番興奮し、楽しんでいる自分がそこにいたのである。
既存の写真に対して覚えた違和感は、犬のありのままの姿、自然な姿が、あまり写っていないと感じたからにほかならない。特に、愛犬が無邪気に、一心不乱に遊んでいるとき、ファインダーを覗いていたら、瞬間的にそのことを認識した。
「犬のこういうのびのびした姿は写真であまり見かけない」
「記念撮影やたんなるスナップの延長みたいなものが多い」
そう思った。
飼い主だからわかるが、こういうときのセナが一番輝いているわけで、彼の魅力や本質がここに凝縮している。
「犬の写真のキモはこれだ」
私の心にそれは強く刻みこまれた次第である。