プロローグ その2
2010年7月15日
写真: カレンニー難民キャンプ3(当時)の高校生からの手紙(詳しくは本文参照)
初めての滞在
「首長族」と呼ばれる彼女たちは、みずからのことを「カヤン」と呼ぶ。私がジャパンポ(日本人)であるように、自分たちは「カヤンポ(カヤン人)」であるという意識がある。そんなカヤンの人びとの故郷は、隣国ビルマにあり、自分たちは難民であるという。村の雰囲気はいたって平和だし、難民と言われてもピンとこなかった。ただ、滞在にあたり、安全上の理由から、観光村で寝泊まりしてはいけないと言われていた。だから私の寝床は、観光村から「徒歩30歩」のタイ人が居住するエリアの村長の家となった(「村が危険」とされた理由は、ずいぶん後から知ることになる)。
村での毎日は、自分なりに「カヤン・日本語辞書」をつくりつつ、少しずつ彼女たちの「首輪の謎」と「観光客の相手をすること」への認識を聞き取ることにした。当時10歳の少年につれられて、隣の観光村(といっても山道を私の足で1時間ほどかかる)のフェプケン村へ遊びにいったりもした。
この少年は、自分たちのことを指して、「カヤン」と言うこともあれば、「カレンニー」と言うこともある。「カヤンなのかカレンニーなのか、どっちなんだ」と問うても、「両方」というような答えが返ってきて要領をえない。観光業の謎に加えて、彼らの民族意識の所在はどこにあるのかも私を悩ませた。
もうひとつの観光村
そんなある日のこと、ある女性と話をしているところに、村のものではない若い男性が寄ってきて、おもむろに一枚の手紙を渡してきた。その手紙には、英語でこんなことが書かれてあった。
「私たちは、カレンニー難民キャンプ3の高校生です。高校の図書館への寄付金を募っています。私たち、カレンニー難民キャンプ3の高校生は、私たちの将来に向けて教育をつづけるよう努力しています。寄付金はいくらでも歓迎します」
私は気前よく100バーツ [1] を彼に手渡した。彼はお礼を言ってその場を立ち去った。
このやりとりをみていた女性は、私に「偉い!」と言って褒めてくれた。それからというもの、村の住民は、私に「ナイソイ村へはいったことがあるか?」「ナイソイ村へはいかないのか」としきりにすすめてくる。そこには、もうひとつの観光村があるという。もちろんその村には、誰も知り合いはいないし、あまり乗り気ではなかったが、すすめられるがまま、いってみることにした。
そこは、ファイスアタオ村よりも大きな観光村で、到着したころには子どもたちがバレーボールをして遊んでいるところだった。すると、10メートルほど先の茂みのなかから、ひとりの少女が出てきた。それはフェプケン村で出会った中学生の少女である。初めて訪問する村で、私には居場所がなかったこともあり、その少女が出てきた先に興味が移った。
「あっち側へはいけるの?」 私は少女に尋ねてみた。うなずく少女。
茂みの奥には……
いってみると、茂みのなかに小径ができている。10メートルくらい進むと、突然視界が開けてきた。赤土色の大地に、観光村と同じように立ち並ぶ家々。日差しが強いせいか、あまり人影はみられない。崖の壁には教会があり、その先は広場になっている。ようやくピンときた。ここが難民キャンプだ。高床式で、竹の骨組みと葉を重ねた屋根からなる家のつくりは、観光村のそれと同じだ。
しばらく歩いてみると、家のなかに人がいる。家のなかでおしゃべりをしている人たちは、こちらに目を向けるが、とくに関心はないようすで、すぐに目線をそらす。なにを話せばいいのかわからず、話しかけることができなかった。1時間ほど歩き回ったが、まだキャンプの全体像はよくわからなかった。それほど広大な土地に、多くの人が住んでいた。
滞在先へと引き返す途中、子どもが寄ってくる。
「ハーバー、ハーバー(5バーツ、5バーツ)」。それを振り切るようにして、私は難民キャンプを後にした。
難民キャンプで生きるということ
後でわかったことだが、この難民キャンプは、「カレンニー難民キャンプ3」と呼ばれる場所であった。当時は、私のように「たまたま」難民キャンプを訪問し、そこで英語教師をする西洋人の旅行者もいた。しかし、このキャンプは翌年の2002年に、より国境に近いキャンプ2に移転させられ、現在はない。2年後に再訪したが、住居はすべて取り壊され、人が住んでいた気配はなくなっていた。
このキャンプ訪問を境に、私はここに本当に難民がいることを実感しはじめた。そして、カヤンの人びとの祖国ビルマについて調べるにつれて、なぜ彼女たちがタイにいるのかも、なんとなくわかったような気になった。ビルマでは、内戦がつづいており故郷に住むことも、帰ることもできないのだ。
観光という光と、その影にある難民。観光と難民をつなぐ隣国ビルマの紛争。「観光と紛争」という奇妙な同居が、私を惹きつけた。
カヤンの人びとは、難民として来ているから、観光業を営み、生計を立てていくしかない。そう考えることで、カヤンの人びとが「見せもの」にされているという違和感は、次第にやるせないものへと変化していった。この先も、ずっと観光村での生活がつづくのだろうか。何万人にもおよぶビルマからの難民はどうなるのだろうか。祖国へ帰ることはできるのだろうか。そして、「カヤン」と「カレンニー」には、どんな関係があるのだろうか。
注1: 1パーツ約3円。5バーツでスナック菓子が買える程度の金額。 [ ↑ ]
(毎月15・30日更新)