ビルマの「転換点」
2010年11月30日
「総選挙」とアウンサンスーチー 氏の解放
2010年11月のビルマでは、歴史に残る大きな2つの出来事があった。
それは、20年ぶりの「総選挙」と7年半ぶりにアウンサンスーチー氏が自宅軟禁から解放されたことである。スーチー氏は、2度の解放期間をはさんで合計3回、1989年からのべ15年間も自宅軟禁にあった。
この2つの出来事が深く印象に残ったのは、「総選挙」を実施する体制への「不信」と、解放後に国民がみせたスーチー氏への「信頼」が対照的であったからである。
さんざん指摘されているように、11月7日に20年ぶりに行われたビルマの「総選挙」は、問題含みだった。そもそも、選挙に先立って行われた憲法の承認をめぐる「国民投票」や、その結果、「承認」された憲法は、現在の軍事体制を「合法的」に、民政の名のもと継続させるためのものであった[1]。選挙結果は、誰もが予想したとおり、現政権よりの政党の大勝におわった[2]。こうした事情から、この「総選挙」は茶番とされ、体制への「不信」を改めて浮き彫りにするものになった。
一方で、11月13日に解放されたスーチー氏への支持と期待は、「総選挙」のそれとは対照的だった。解放された当日や、翌日の演説には、数千人とも数万人ともいわれる多くの人が駆けつけた。はっきりとした口調で明晰なメッセージを発する彼女を頼もしく思った人は少なくないはずである。体制への「不信」に対して、国民の彼女への「信頼」と、彼女が「信頼」する国民が、これから具体的にいかにビルマを変えられるのかはわからない。それでも、そのためのヒントはスーチー氏の演説にあると思う。
スーチー氏の演説については後で触れるが、今回は、ビルマ体制への「不信」をいかに「信頼」へと変えられるのか、その可能性について、さまざまな視点から考えてみたい。
映画「ビルマVJ」と「困ってるひと」からのメッセージ
いきなり話がそれるようだが、今年の話題作に、アカデミー賞にもノミネートされた「ビルマVJ 消された革命」というドキュメンタリー映画がある。この映画は、2007年の民主化運動が生起し弾圧されまでの過程を、現地のビデオ・ジャーナリスト(VJ)が撮影した映像をもとに伝えるものである。
映画の日本語版には、「消された革命」という副題がついているが、私はこれを半分だけ「誤訳」だと思っている[3]。それは、この映画が伝えようとしたことは、「民主化運動が弾圧された」ことにとどまらないからである。むしろ、軍政の恐怖政治が浸透しているなかでも、人びとには立ち上がるポテンシャルがあることを示唆している。詳しくは映画を観てもらいたいが、無慈悲に弾圧される人びとの姿も「真」ならば、それを変革しようとする人びとの意志が息づいていることもまた「真」なのである。
「ビルマVJ」の原作者であるヤン・クログスガード氏は、ビルマ情報ネットワークとの鼎談で、ビルマの問題への切り口について、次のように述べている[4]。
とにかく表現方法の見直しが急務です。人権問題を訴えるのがダメという意味ではありません。でも「人権」という言葉を何度も耳にすれば、そのうち誰でもうんざりしますよ・・・中略・・・新しい比喩を編み出し、ビルマの描き方を変える必要もある。受け手が自分と関連づけて考えられるきっかけを探すべきです。ビルマに関する比喩や表象が変わらない限り、事態は動きません。
ヤン氏のこの指摘には、硬直した現状を打破するためのヒントがあるのではないだろうか。
私もかねがね、ビルマの問題をいったん「人権」から切り離して、別の切り口から考える必要があると感じていた。ヤン氏が述べるように、問題点ばかりを指摘するのは、それを指摘する方も聞く方も疲れてしまうし、飽きてしまうからである。これでは、関心のある人とない人の温度差は広がる一方である。
ヤン氏の指摘は、体制への「不信」をあおるだけでは不十分ではないかという問題提起であり、私もこれに賛同する。だからといって、体制を批判することに意味がないとか、それをやめるべきだと考えているわけではない。これは、バランスのとり方や語り方の問題でもある。
この切り口のヒントは、前回紹介した大野更紗さんのブログにもあると思う。大野さんは自身の病気とともに医療制度とも闘っている。大野さんが抱える問題は、いまこの瞬間、大過なく暮らしている人には、実感としては共感できない事柄ばかりである。それでも、多くの人の関心を呼ぶのはなぜだろうか。
それは、大野さんが問題を問題として語りつつも、「ユーモアすら垣間見えてくる」ように、そこに前向きな姿勢も見えてくるからである。そのやり方(書き方)は、けっして現実を茶化さずに、問題の本質に迫ってもいる。言い換えると、制度への「不信」とともに、そこに顔が見えるからこそ、その言葉一つひとつへの「信頼」、関心と共感が生まれるのではないだろうか。
このように「不信」だけではなく、そこに息づく対面的な「信頼」の側面を見ていくという視点は、ビルマの問題への切り口にも応用できるのではないだろうか。
では、そもそもビルマが抱える問題とは、何なのだろうか?
「不信」のつくり方――ビルマ政府の戦略
あくまで外から見ていてという前提のもと話を進めるが、ビルマ政府には相互に関連する2つの常套手段があるように思う。ひとつ目は「大切なことはどさくさに紛れてやり通してしまうこと」で、2つ目は「とにかく既成事実をつくってしまうこと」である。
例えば、今回の出来事では、選挙後にスーチー氏を解放することで、「よかった」というムードをつくりだすことに成功した。その結果、茶番選挙の印象よりもスーチー氏解放の印象が強く残ることになった。スーチー氏の解放劇は、ビルマがあたかも「民主化」へ進んでいるかのように見せかける。今回の選挙結果は、やがて「民主的な選挙」の既成事実となり、内外の批判をかわす盾となるだろう。
この「総選挙」に先立って行われた2年前の国民投票も、どさくさに紛れて敢行された。
その国民投票とは、軍政が用意した新憲法の是非を問うためのものだった。しかし、投票日の直前に、サイクロン「ナルギス」が襲いビルマに未曾有の被害をもたらした。国民投票は、正確な被災状況すらわからないまま強行されたのである。混乱のなかで実施された国民投票について、政府は「投票率98%、賛成率92%で憲法は承認された」という驚くべき発表をした。どさくさに紛れて「承認」された憲法と、今回の「総選挙」にもとづいて、今度は議会が招集される。
このように、どさくさ紛れでつくられた既成事実は、体制への「不信」を助長させる。しかし、これよりも深刻だと思われるのは、体制への「不信」は同時に、対面関係の「不信」をも生み出してしまうことである。
例えば今回の「総選挙」でも、選挙をボイコットするべきという勢力と、積極的に参加する勢力に二分されてしまった。これは結果として対面的な「不信」を助長し、体制だけを強化することになる。
「ビルマ」と「ミャンマー」という呼称もそうかもしれない。民主化を求める人びとの意に反して、少なくとも日本では「ミャンマー」の呼称がかなり定着した。その結果、「ビルマ=民主化勢力」、「ミャンマー=親軍政」という二項対立の図式を生み出してもいる。しかし、これはある意味で不毛な二項対立である。たかが呼称(されど呼称かもしれないが)の問題なのに、両者は意識を共有できないような錯覚をもたらしてしまうからである。
「ビルマの人は団結するのが苦手だ」と言われる。そうなってしまったのは、体制への「不信」を通して、巧妙に対面世界での「不信」がつくられたからではないだろうか。これこそが、ビルマ政府の戦略である。
そして、「人権」を糾弾するだけのやり方の弱点は、体制への「不信」を非難することはできても、対面世界での「信頼」を構築するには寄与しない点にある。
「どさくさに紛れてつくられた既成事実」に異を唱えることは重要である。しかし、否定的な言葉からは、「信頼」は生まれないのも事実であろう。そのことを教えてくれるのが、スーチー氏の演説である。
「不信」から「信頼」へ――スーチー氏の演説から
スーチー氏は演説のなかで、民主主義とは何か、政治とは何かについて、さまざまなメッセージを送っている。
演説内容のなかでも、あえて私が注目するのは、自宅軟禁中に彼女を監視していた警備の人に、感謝の気持ちを伝えている箇所である。彼女は間をおいて2度も、それぞれ次のように述べている[5]。
私の自宅軟禁の間、警備に就いた人たちともたくさん交流がありました。私に対して、彼らはとてもよくしてくれました。事実をそのまま語っているのです。お礼を言うべき人にお礼を言わなければなりません。警備の担当の人たちにお礼を言いたいと思います。今の言葉は私の本心からのものです。
そして、「私は対話だけを信じています。この方法を私たちが使わなければならないということを私は信じています」として、次のように述べている。
この本部(国民民主連盟の本部)に来て、私を支持してくれているみなさんの前で正直に話させてください。私を警備していた人たちに対して、私は憎しみの気持ちはありません。
私の性格からして、誰かを憎んでいるわけではありません。そのような感情は私にはありません。私は拘束を受けていた期間、私の警備の担当者たちは私に対しとてもよく接してくれました。私は事実を言っているのです。私に本当によくしてくれました。私はそれを大事にしたいと思います。感謝しています。
このようにいかなる地位であっても、いかなる分野にある人であっても、一人ひとりが思いやりを持って付き合ってほしいと思います。そのように私に対して丁寧に付き合ってくれたように、国民に対しても思いやりを持って接してくれればどんなによいことでしょうと思いました。
私を自宅軟禁にしたように、人びとを軟禁状態に置かないでください。私に丁寧に接したように、国民に対しても丁寧に接してくださいとお願いしたいです(括弧内は筆者補足)。
この感謝の言葉は、解釈の仕方によっては、軍政側に対する戦略的な「おべっか」ととれるかもしれない。しかし、私はこの言葉はスーチー氏の本心だと思う。
単純に考えると、警備についた人とは自分を軟禁させた軍政側の人間なので、何らかの敵意をもっていたとしても不思議ではない。しかし、スーチー氏は警備の人に憎しみはない、むしろ感謝していると述べている。
それは、警備担当者との対面世界での「信頼」に、体制への「不信」を克服するためのヒントを見出したからではないだろうか。この点は、「(警備の担当者は)私に本当によくしてくれました。私はそれを大事にしたいと思います」と述べていることからも推察できる。あるいは、スーチー氏のこのメッセージは、体制への「不信」を対面世界での「不信」と混同してはならないと言っているようにも解釈できる。
これまでにも、軍政・スーチー氏(国民民主連盟)・諸民族勢力の三者対話の重要性が指摘されてきた。対話が重要性なのは、世界で最長の内戦が続くビルマだからという理由だけではないだろう。スーチー氏が演説のなかで対話が重要だと述べるのは、それがものごとの基礎となる対面世界での「信頼」の足がかりになると考えているからではないだろうか。
これからビルマはどこへ向かうのだろうか。おそらく、外からの体制批判に対して、ビルマ政府は、憲法、選挙、議会、民主化、という「批判する側の用語」をもちいて防衛するだろう。だから、体制を批判するというやり方には、びくともしないだろう。
だからこそ今回の「転換点」を機に、外にいる私たちは、体制への「不信」を指摘することに加えて、対面世界での「信頼」の構築をサポートできるような、そんなアプローチ方法を考えなければならないのではないだろうか。
- [1]新憲法の中身の解説は、根本敬(ビルマ市民フォーラム運営委員、上智大学外国語学部教授)「はじめての方々への解説」を参照。↩
- [2]ALTSEAN-BURMA(Alternative Asean Network on Burma)による統計を参照。↩
- [3]これはデンマークの映画で、原題は、“Burma VJ: Reporter i et Lukket Land”、英題は、“Burma VJ: Reporting from a Closed Country”である。「誤訳」だというのは、もちろん直訳ではないからというわけではない。↩
- [4]詳細は、「創造的なビルマ連帯へ向けて 映画『ビルマVJ』原作者に聞く」 『情況』第三期第11巻第6号、情況社、2010年6月、45~54頁。 http://www.burmainfo.org/column/column.php?mode=1&columnid=66 (2010年10月7日配信)↩
- [5]演説内容の全文は、asahi.com(朝日新聞社)「スー・チーさん演説全文」を参照。↩