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在日ラオス人たちの新年

2011年5月15日


写真:バーシーと呼ばれる健康や安全を願う伝統的な祈祷式のようす

ピーマイ

「あけましておめでとう!!」

先日、在日ラオス人たちのピーマイ(新年)のお祝いに、知人たちと一緒に参加させてもらった。
2月が中国の旧正月にあたるように、ラオス、タイ、ビルマなどでは、4月中旬が旧正月にあたる。現地では、1月よりも4月のピーマイが盛大に祝われる。ただ、その時期はたいてい平日なので、日本など他の国にいる人たちは、時期をずらして土日や連休に新年のお祝いをする。

兵庫県で毎年行われているピーマイは、西日本で暮らすラオス人たち数十から100人ちかくが参加した。遠路、広島から参加している人もおり、みんながとても楽しみにしているイベントであることが伺える。

この会は、主催者のラオス人の挨拶にはじまり、バーシーと呼ばれる健康や安全を願う伝統的な祈祷式が行われた(写真を参照)。厳粛に、というよりも、ワイワイガヤガヤしているなかで会は進む。続いてラオスの伝統衣装に身をつつんだ女性が踊りを披露し、みんなが待ちに待った食事にうつる。ビュッフェ形式でこんもりと盛られたおかず、そしてラオス料理には欠かせないもち米もたっぷりある。食事は、在日ラオス人たちがもちよったらしく、パパイヤなど手に入らない食材の代わりには人参が使われている。たっぷりと用意されたおかずは、最後まで尽きることはなかった。

食事の時間からは、大音量でラオスの音楽がエンドレスで流れる。音量が大きすぎて、大きな声を出さないと隣の人とも会話できず、周りの人が何を話しているのかは、まったくわからない。「音が大きければ大きいほど楽しいし、よいこと」という点は、タイも同じだ。ひととおり食事が終わると、会場は「ディスコ」と化し、みんなが踊り出す。音楽は、年長者に馴染みのあるものから、最新の流行歌まで用意されているという。サブカルチャーでもラオスと「つながって」いるのだ。

大きな音に慣れていない私たちは、いったん廊下のほうへ「避難」し、部屋を出入りする人たちと話をすることができた。

兵庫県の神崎郡という小さな町に、これだけ多くのラオス人が集結することにも驚いたが、その顔ぶれも多彩だ。年長者から日本生まれの子どもまでが参加し、30~40歳代の親世代のなかには、比較的最近になってラオスからやってきた人もいれば、幼少期をタイの難民キャンプで過ごした人もいるようだ。長年住んでいる人のなかには、見た目にも日本人と違わず、そして、少なくとも私よりも「関西弁らしい関西弁」を話す人もいる。

生い立ちを話すこと

ラオスへは10年ほどまえに一度だけ旅行したことがあるだけで、私とラオスの関わりは、ほとんどないに等しい。また言うまでもなく、ここで出会う人はみんな、初対面である。それなのに、声をかけた(かけてくれた)人の多くが、自身の生い立ちや、日本に来た理由や背景を、自ら語ってくれたことには何よりも驚かされた。

一般的な日本人の感覚からしても、また私のタイでの調査の経験からも、初対面のよくわからない人には、そんな話はしない。ピーマイという「ハレ」の非日常によるものだろうか。それとも関西人よろしく、たんにフレンドリーなだけなのか。そもそも、このピーマイのことは、知人の知人を通して知り、参加させてもらった。この方と彼らとの信頼関係が、初対面の私たちにも作用したのだろうか。

いずれにせよ、見た目にも日本人と変わらないように見え、バリバリの関西弁を話すので、言われないとラオス人(あるいはラオス出身者)だとわからない人もいる。それでも、気軽な調子で、生い立ちや日本にきた経緯を話してくれる。なぜだろうか。

幼少の頃に、ラオスからタイを経由して来日し、もう何十年も日本で暮らしていても、自らのルーツを大切にし、「そこをぬきにして私は語れない」、そんな意志のあらわれではないだろうか。「すっかり日本人になったね」と勝手に思うのは、日本人のほうである。彼らがラオスとのつながりを維持しつつ暮らしているように、定住することは、日本人に「同化」してしまうことではない。

対面世界での「多文化共生」への第一歩は、ついつい「同化」の基準で判断してしまう「あたりまえ」に気がつくこと。そんなことを改めて感じた「新年」だった。