第1回 漂流のはじまり……ドミニカ共和国へ
2009年6月12日
写真:ドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴにて、カリブ海を望む
ドミニカ共和国
ニューヨークからサント・ドミンゴに向かう飛行機がゆっくりと高度を下げていく。機内は、故郷に帰る移民たちの熱気に包まれており、そのなかに身をゆだねているだけで、お尻のあたりがムズムズしてくるのがわかる。こちらが聞いてもいないのに、故郷で待つ家族のことやアメリカでの生活についてまくしたてていたおじさんが神妙な顔つきで窓の外をながめている。その足元には免税店で買い求めたのであろうジョニーウォーカーが2本。我慢ができなかったとみえて1本はすでに封が切られていた。
ドミニカ共和国(以下、ドミニカ)はカリブ海に浮かぶ島嶼群のひとつ、大アンチル諸島に属するイスパニョーラ島にあり、隣国ハイチとその領土をわけあっている。面積は九州より少し大きく(約48,000km2)、人口約900万の国である。おもな産業はサトウキビ栽培を中心とした農業であったが、近年は砂糖の国際価格の低迷により国家収入を観光と海外送金による外貨獲得に依存するようになっている。
1492年にコロンブスが到着して以降、ドミニカは険しい道のりを歩んできた。先住民のタイノ族はスペイン人がもたらした疫病と強制労働が原因で、わずか80年間で絶滅にいたった。タイノ族の役割は、西アフリカから連れてこられた奴隷に引き継がれた。スペイン、ハイチ、アメリカとめまぐるしく替わる宗主国に翻弄されながら、独立をはたしたとはいえ現在もなおアメリカによる政治経済的支配下におかれている。
11月を過ぎ乾季がはじまると、カリブ海沿いのリゾート地は休暇で訪れる欧米からの観光客でにぎわいはじめる。美しい砂浜に建つリゾートホテルには、宿泊する欧米人と低賃金で働くドミニカ人従業員。24時間供給される電気は近隣住民がロウソクの灯りで夕食をつくることでまかなわれている。南北格差の現実を前に言葉を失ってしまうが、当事者ではない私は目に見えぬ相手への闘争心と諦念という感情をもてあますことしかできない。
「移民」との出会い
ドミニカに通うようになって10年になるが、きっかけはささいなことであった。高校卒業後、阪神大震災の復興現場でクレーンの運転手をしていた私は、昼食のためにはいった中華料理店でその後の人生を変える光景に出会う。座敷席を陣取った集団が聞きなれない言葉を早口でまくしたてている。顔つきは少し彫りが深いようにもみえるが、日本人だといわれたらうなずいてしまうほどである。顔なじみになっていた店主が「あの人らペルーから来てはんねん」と教えてくれた。のちに、彼らが日系ペルー人と呼ばれていること、祖父母のどちらかはその昔、日本からペルーへ移民として渡っていった人たちであったこと、そして同じような人たちがブラジル、ボリビア、ハワイ、カリフォルニアにも数多く暮らしており、彼らの子孫には日本での就労資格が与えられていることを知った。当時の私はこのことを知らなかったが、移民と呼ばれる人たちが国内にも暮らしているということが強烈な印象として心に刻まれたのだった。この出来事がきっかけとなり、移民関係の書籍や新聞記事をむさぼるように読みはじめた。同時に、現場で働く彼らとなんとかコミュニケーションをとりたい、なにを話しているのかを知りたいと「駅前留学」をしてスペイン語を習いはじめたのである。その後、仕事を辞めて時間ができた際、はじめての海外旅行先にドミニカを選んだのは子どものころから野球をやっていたこと、習いはじめたスペイン語を試してみたかったことによる。
振りかえると、大学受験に失敗したものの、予備校に通うこともせずにその後の人生を決めあぐねていた私にとって、彼らとの遭遇は「移民」という現象を知ったこと以上の意味をもっていたように思う。これから社会という得体の知れぬ場所にひとりで飛びこんでいかねばならない。これまでのように親や教師が道筋を示してくれることはない。そのような不安を抱えていた私には、異国で生きていくことを選択した日系ペルー人が「人間はいかに生きるべきか」という問いに対して、「越境者として生きる」とでもいうべき回答を示してくれているように思えたのだ。
冒頭の機内で隣りあわせたおじさんの場合はどうだったのであろうか。本当は生まれ育ったドミニカでずっと暮らしたかったのかもしれないし、豊かな生活を求めてみずから海を渡る決断をしたのかもしれない。あるいは、いまだにその相克の狭間で苦しんでいるのかもしれない。いずれにしても私がこれまで心を惹かれてきた人たちは、生まれた場所を離れ国境を越えていった人たちである。もちろん実際に国境を越えなくとも、国内にも異文化は存在するわけだから、自分の周辺や内部に存在する異文化を意識化し、そこに飛びこもうとしてきた人たちも含まれる。そのような人びとはまた、ひとつの場所に安住することが苦手な傾向にある。そういった人たちを表現する言葉としてこの文章のタイトルを「漂流者たち」とした。
「野球+越境する人たち=野球移民」を知ること
現在、私は大学院の博士後期課程で文化人類学を専攻しており、「越境するスポーツ文化」というテーマを標榜している。博士論文では、ドミニカからアメリカに渡る野球選手を「野球移民」と定義し、彼らの移動経験とスポーツを介した国際移動の実態を民族誌的に記述することをとおして、「野球移民」の背景にある近代スポーツ文化の土着化の過程を明らかにしたいと考えている。今回の滞在目的はその博士論文を執筆するためのフィールドワークである。
フィールドワークとは、人類学者がおこなう調査方法で、簡単に説明すると、異文化に長期間滞在し、現地の人びととともに暮らしながら、その社会を理解するというものである。現地の人びとと暮らすということは、彼らが話す言葉を習得し、彼らと同じものを食べ、彼らと同じように振る舞うことであるが、現地の人びとがするように振る舞うということは、簡単なようにみえてじつに大変なのだ。それは、食事や言葉といった日常生活に関わるものから儀礼の折に表象される世界観までにおよぶ文化的差異のなかに身をゆだねることだからである。そのために滞在中は、はじめて遭遇する出来事により、新鮮な感動をもらうことがしばしばある。反対に、はらわたが煮えくり返る怒りで誰とも言葉をかわす気力を失うこともある。そうではないときでも、異文化で暮らしていることによる違和感が身体のなかを常に駆けめぐっていたように思う。
異文化を理解することが人類学者の目的であるとはいえ、現地の人びととともに暮らすなかで100%の共感を達成できる(あるいはできた)といいきれるほど、私はロマンチストではない。したがって、これから書きつらねていく文章は、滞在中に私が「見て、聞いて、歩いて、食べて、飲んで、笑って、怒って、泣いた」のちにたどりついたささやかな共感の記録である。日本から遠く離れた場所で生きる人びとが、なにを考え、どのように生きているのか。私というフィルターをとおしてではあるが、その一端を覗いてもらいたい。日本ではまだ一般によく知られていないドミニカの社会・文化を知る機会を提供できれば幸いである。
ふたたび冒頭のおじさんである。入国審査と税関を抜けると出迎えの人たちでにぎわう到着ロビーにでる。おじさんはしばらく知り合いの姿を探している様子だったが、誰もきていないことがわかると、さっさと客待ちをしていたタクシーに乗りこんだ。その直前、ニューヨークの自宅をでるときには必要だったジャンパーを脱ぐと、片時も忘れることのなかった故郷の青空を見上げてまぶしそうに目を細めた。
(つづく)