第6回 「野球移民」降誕
2010年1月19日
写真:アメリカ合衆国ペンシルバニア州フィラデルフィア市シチズンズバンク・パークにて
MLB ―― 移民国家の縮図
野茂英雄投手がメジャーリーグ・ベースボール(MLB)に移籍した1995年のことである。NHKの衛星放送から流れる試合をぼんやりとながめていた私は、カメラが映しだす観客席の光景に釘づけとなった。当時、野茂投手のチームメイトにラウル・モンデシー――ドミニカ出身で新人賞を獲得――という外野手がいた。彼が打席に立つたびに、ドジャー・スタジアムの観客席から「ラウール」とスペイン語なまりの英語で掛け声がかかるのだ。アナウンサーが「ロサンゼルスには中南米からの移民が多く暮らしていまして、ラテン系の選手に対して熱心に声援をおくるのです」と説明をくわえた。当時の日本では、現在ほど街なかで外国人を見かける機会が少なかったから、ドジャー・スタジアムにつめかけた移民たちの表情までをはっきりと捉えた映像は新鮮だった。
その試合にはモンデシー選手のほかにも、ドミニカ、プエルト・リコ、イタリア、韓国に出自をもつ選手たちが出場していた。こんなことがあったのでMLBの選手名鑑を買ってきて選手の出身地を拾いあげてみると、なんと全選手のうち3割近くが外国出身者であった。アメリカ生まれとなっている選手でも名前がスペイン語読みの選手(祖先に中南米出身をもつ者)をくわえると、その比率はさらにあがる。MLBにたどりついた経緯はそれぞれ違うだろうが、国境を越えてアメリカにやってきた数多くの移民たちと同様に、彼らもまたMLBで野球をするために国境を越えてきた移民たちということになる。
今やMLBは、スタジアムにやってくる観客、プレーする選手たちも外からやってきた人たち抜きには成り立たなくなっている。歴史的に移民を受け入れることで国家を形成してきたアメリカでは、ナショナル・パスタイム(国民的娯楽)といわれるベースボールも当然の帰結として多民族化する運命にあったということだろうか。
助っ人ガイジンから野球移民へ
それまで日本のプロ野球界も、毎年一定数の外国人選手を受け入れてきた。「助っ人ガイジン」と呼ばれる彼らの成績が、ペナントレースの行方を左右することもままあったが、当時、日本にやってきた「助っ人ガイジン」のほとんどが、最盛期をすぎたロートル選手であったことも事実である。MLBで成績を残せなくなったベテラン選手が、「物見遊山」感覚で高額の契約金を目当てにきていたのだ。そのため全力でプレーする選手は稀で、守備もお粗末なものだった。もっとも球団側もホームランさえ打ってくれれば、あとのことは目をつぶろうという姿勢であったのだが。また、複数年にまたがって日本でのプレーを望む選手は少なく、1年限りでアメリカに帰ると決めているためか、マンションを借りずに、ホテル暮らしを続けるまさに「観光客」のような選手も多かった。
そんな状況に変化がみられるようになったのはいつ頃からだろうか。今や「助っ人ガイジン」というだけでレギュラーが確約される時代ではない。外国人枠の拡充、育成選手契約制度 [1] の導入などにより、各球団はつねに5、6人の外国人選手を抱えるようになり、すべての外国人選手に高額な契約金を払えなくなった。かつては1億円をくだらなかった年俸も今では、3000万円以下の契約が増えている。育成選手契約にいたっては300万円程度である。
このような時代の流れにともない、日本にやってくる選手の出身地にも変化がみられるようになった。かつてはアメリカ出身選手がほとんどであったが、近年ではドミニカ、ベネズエラ、プエルト・リコ、パナマといったカリブ海地域からの選手が目立っている。共通しているのは、世界経済システムの周縁に位置する貧しい地域で生まれ育ったことである。彼らにとって、3000万円以下の年俸でも経済格差を考えると夢のような金額なのだ。
こういった条件でやってきた外国人選手は出場機会が約束されておらず、日本の若手選手との競争に勝つことが義務づけられた。成績があがれば年俸もあがることを知っているので真面目に練習に取り組み、試合では常に全力でプレーをする。結果的に、日本滞在が長期間になっていく。いわば「野球移民」の半定住化がおきているのだ [2] 。労働移民のほとんどが、過酷な労働やなれない移民先での生活にとまどいながらも、故郷への送金を続けている。プロ野球選手としてはけっして高くない契約金で、必死にプレーする野球選手にとっても故郷への送金がそのモチベーションとなっているのだ。
国内のプロ野球界において、外国人選手の性質がかつての「助っ人ガイジン」から「野球移民」へとあきらかにシフトしたといえそうである。これをもたらしたのは、日本人選手のMLBへの流出、選手年俸の高騰、野球人気の低迷による観客数の減少といったプロ野球界の構造変化である。しかし、その契機となったのは、ひょっとすると1995年の野茂秀雄投手だったのかもしれない。
注
1. 1軍の試合に出場できる支配下登録選手のレベルには達しないが、将来的な活躍が期待できる若手選手を育成する目的で2005年に創設。 [ ↑ ]
2. 楽天、オリックスなどに在籍したフェルナンデス選手、巨人のラミレス選手などがその代表。 [ ↑ ]