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第9回 文化の違い? ―マキシモ・ネルソン投手の逮捕がなげかけた問い―

2010年6月13日


写真: 浅瀬で舟を操る漁師。ドミニカ共和国、サリーナスにて。

平均的なアメリカ人がアメリカのドミニカ人について知っているのは、サミー・ソーサのような大リーガーのことか、ドラッグの売人のことである。……ステレオタイプ化されない時のドミニカ人は、大きく括られての『ドミニカ人』である。

―― P・ペッサール『a visa for a dream』

くりかえされる成功物語

中日ドラゴンズのドミニカ出身選手、マキシモ・ネルソン投手が銃刀法違反(銃弾所持)容疑の現行犯で逮捕された。初犯だったため送検後すぐに釈放・不起訴となったものの、球団は3か月間の試合出場停止処分を決めた。

このニュースを耳にして、これまで彼について書かれた記事に目を通してみた。2年前、ドラゴンズへの入団が決まった翌日の紙面では、この契約がサクセスストーリーであるかのように紹介されている [1] 。その記事によると、ドミニカにあるヤンキースのアカデミーから、アメリカのマイナーリーグに昇格。しかし、2004年のシーズンオフに、30人のマイナー選手が関与する「偽装結婚事件」が発覚。以後、アメリカ滞在ビザが発給されないために、アメリカでプレーすることができなくなり、大リーガーへの道は絶たれてしまった。イスラエルリーグでプレーした後は、故郷の妻の実家に居候し、畑で野菜をつくったり、海で魚を釣ったりと野球浪人の生活を送っていたという。記事は、「お金をドミニカの家族に送金したい」という彼のコメントを載せて、今後のサクセスストーリーに注目しよう、と結んでいる。

ステレオタイプの誘惑

10年前にならすっと読むことができたこの種のエピソードが、ドミニカに毎年のように通うようになった今では、どうしても引っかかる。異文化を語るとき、自分たちの基準にあてはめたひとつの「物語」がつくられ、そのなかに散りばめられた巧妙なレトリックは、読者に偏見を植えつけ、やがてステレオタイプとして定着していく。では、これに代わる自由な「物語」はいかに紡ぎだせばいいのか。
その問いに対する答えのひとつは、その出来事がおきている社会の文脈のなかで理解することであろう。そこで私は、調査地で出会ったサクセスストーリーではない無数の「物語」に想像をめぐらせてみようと思う。

結婚=ビザ?

私たちは「偽装結婚事件」のように、偽装や事件の文字を見ると、すぐに悪いイメージをいだいてしまう。それはパスポートと航空券さえあれば、どこへでも行けてしまう日本人特有の受けとめ方である。たとえ観光旅行でも滞在ビザを持っていなければアメリカへの入国が認められないドミニカの人びと(特に貧困層の人びと)が、アメリカ滞在ビザを取るには、かなりの知恵と努力、そして幸運が必要となる。そもそもアメリカが、ドミニカ人に対して無条件にビザを発給してくれないのであれば、アメリカ側が要求するビザ発給要件を満たさなければならないのはあたりまえである。そこで選択された方法が、滞在資格を有する人間との「結婚」だったとしても不思議ではない。このことはドミニカで、正式に結婚する夫婦はまれであり、「正式に結婚=アメリカのビザ取得」と同義となっていることからも容易に想像できる。

もうひとつの物語

結婚の話でいえば、この短い記事のなかに、「妻の実家に居候」とさらっと書かれているので読者の多くが、「ああ強制送還をされて、マスオさんのように肩身の狭い思いをしてきたんだな」と感じたはずだ。では、この記事をスペイン語に訳して、ドミニカの人たちに読んでもらったらどんな反応をするだろうか? 
すぐに居候という単語をなんと訳せばいいのかという問題に直面する。英語のパラサイトに似たスペイン語はあっても、ドミニカでは、妻の実家に住む夫を指してパラサイトとは言わないからだ。拡大家族の回で触れたように、核家族単位で独立した生計を立てているのではなく、親・兄弟・親戚、あるいは前の夫やその家族にまでおよぶ広い範囲の親族が密接に関係して、それが社会の最小単位となっている地域では、妻の実家に「居候」する男などいちいち話題にするような存在ではないのだろう。

そもそもサクセスストーリーを前提にした、自分たちの基準でつくられた「物語」なんておもしろいのだろうか。地球の反対側に自分たちとは異なる価値観を持って生きている人たちがいる。そんな「物語」に想像をめぐらせてみるとより人生が豊かになると思うのだが……。

美しい花にはとげがある

ネルソン投手が逮捕された直後、中日のある選手が「文化の違いかな」とのコメントを残している。「文化の違い」という言葉は、両義性を持つ。ひとつは、違う文化を持っている(ここでは一般人でも許可さえあれば銃を持ってもいい社会で生きてきた)のだから、それを理解しないといけないという考え方。もう一方は、我々とはまったく違う文化に育ったのだから、理解しあうことは不可能だというもの。異文化理解という美しい花に生える棘。文化的他者を排除あるいは差別するための獰猛な棘。そこには少なからずステレオタイプの誘惑が影を落としている。多様な文化的背景を持った人びとが、同じ国家や地域で共存していくためには避けては通れない課題である。

注1: 中日スポーツ、2008年2月13日。 [ ]