第30回 野球狂顛末記①-渡航費用の代償―
2011年6月12日
写真:母親が準備をしたロヘリオの昼食。ドミニカ共和国、バニにて
壁の落書き
毎朝、近所のコルマドへパンを買いに行くのが私の日課である。ある日、ロヘリオの家のまえを通りかかったときにいつもと違うことに気がついた。「Rogelio no tiene la casa(ロヘリオには家がない)」と入口近くに落書きされていたのである。
平屋だろうが、高層マンションだろうが、ブロックを積みあげていくのがドミニカ流の建築スタイルである。外壁は、ブロックの表面にセメントを塗って下地にする。下地ができると、あとは施主の好きな色でペンキを塗れば完成である。どの町に行っても、素材がブロックから板にかわることはあっても、色とりどりに塗られた外壁はかわらない。強い日ざしが反射する、壁が立ち並ぶ通りを歩いていると虹のなかにいる感覚になる。なので、壁に文字が書かれてあると目をひく。たいていの場合は、「Se Vende(売り家)」「Se Alquila(入居者募集)」というものだから、内容が内容だけに、ロヘリオの家の落書きは異様にうつった。そういえばここ数日、彼の姿を見かけない。ロヘリオになにかあったのだろうか。胸騒ぎがした。
密航費用を工面する
ロヘリオの年老いた母親が玄関から顔をのぞかせて、私を呼んでいる。80歳になってからは年齢を数えていないというので、正式な彼女の年齢を知るものはいない。敬虔なカトリック教徒で、年に一度は聖人サン・ミゲルに祈りを捧げるためにパロ(カトリックに西アフリカからの奴隷が持ちこんだ宗教が混ざった民間信仰の儀礼。円柱状の太鼓を打ちならして激しく踊る。かならず参加者の何人かはトランス状態におちいる)を催す。家のなかに足を踏み入れると、いくつかの聖人の写真が立てかけてあり、壁には亡夫とボストンにいる長女の写真が飾られてある。ロヘリオと17歳になる長女の息子の3人暮らしだが、家のなかに小さな子どもや女性のかまびすしい声がしないだけで、かなり淋しく感じられる。路地の喧騒が遠くにしりぞき、老婆の静謐さがそのまま空気となって家全体を覆っていた。
「刑務所にいるロヘリオに昼食を届けてくれないか」と言われたときは耳を疑った。なにをやらかしたのか。話はプエルト・リコへの密航へとさかのぼる。ドミニカからプエルト・リコにむかうにはジョラ(Yola)とよばれる小型船に40人ほどが乗りこんでいくことはまえに書いた。この密航にはやはり手配師がいて、渡航費用を徴収する。相場は、日本円にして30万円以上。建築現場の日当が2000円だから、工面するのは至難の業である。ロヘリオはどうやってかき集めたのか。
家族のなかにアメリカで暮らすものがいる場合、渡航費用の大半は彼らが負担する。移民先での生活に余裕があるわけではないが、頼まれるとけっして拒まない。兄弟姉妹やイトコ、甥や姪、それにコンパドレといった近親者が来てくれることがうれしくてたまらないし、その費用を負担することで、相手への思いを証明することにもなるからだ。
ロヘリオはボストンにいる姉から渡航費用の半分を送金してもらった。残りの半分は、家の登記書類を担保に近所のお金持ちから借りた。ただし、この書類は偽物だった。
もちろんこんな稚拙な寸借詐欺はすぐに露呈する。しかしである。人生に「たられば」などはないのだけれど、もし、無事にプエルト・リコを経由して、ボストンに到着していれば、仕事さえみつかれば短期間に返済のできる金額だったし、近所のお金持ちにしても待ってくれたはずだ。それを証拠に、警察がやってきたのは、ロヘリオにメキシコの査証がおりなかったという噂がバリオじゅうにひろまったあとだった。ようやく落書きの意味を理解した。
母親の昼食
「亡くなった夫はほんとに真面目な人だった。息子だってこれまでに一度も警察のやっかいになったことなんてなかった」と老いた母がロヘリオにそっくりの早口で語る。「ボストンにたどりついてさえいれば、お金も返せたのに……」骨と皮だけの腕が、半袖の開襟シャツからのぞいている。首には十字架のネックレスがぶらさがっていた。
普段は、近所に住む次女の息子が昼食を刑務所のロヘリオに届けるのだが、この日は首都に行って不在である。そこで刑務所の面会日(水曜と日曜)ということもあり、私に頼もうと思ったのだ。机にはすでに昼食の入った網カゴがあった。その隣で聖母カルメンが微笑みを浮かべていた。
共通の友人であるべへに電話をかけて一緒に行ってくれるように頼む。もちろん、というふたつ返事のあとで気になることを言った。「靴はダメ。サンダルに履きかえてこい。腕時計とサングラスと帽子もダメ。それから……パスポートを忘れずに」5分後に迎えに行くとの言葉を残して電話はきれた。服を着がえると冷たい水をコップに2杯、たてつづけに飲みほした。いっこうに身体の火照りはおさまらなかった。不安とも焦燥ともつかない感情がわきあがってきた。ドミニカの刑務所は想像もつかないが、ロヘリオは元気だろうか……。
(次回につづく)